日本基督教団 港南希望教会・鈴木義嗣氏


説教「十字架こそ救い」
イザヤ書43:1〜7、ガラテヤの信徒への手紙3:13

1.教会は、十字架を掲げています。しかし、この十字架は、ただの紋章や印などではありません。
深い意味があるものです。私どもは、毎週礼拝を献げ続けています。
そこで何をしているかと言えば、ひたすら、この十字架の恵みに与り続けるのです。
生涯十字架の恵みに与り続けるのだと言ってもよいでしょう。
しかも、十字架の恵みは、いつか極める、いつか悟るというようなものではなくて、
どんなに学んでも、それよりも、もっともっと大きい神の恵みがあることを、絶えず知らされるのです。
言い換えれば、私どもが、神の救いというものを考えるとき、それは実際に与えられている救いを、
小さく理解してしまっている。そのために私どもは、呟いたり、疑ったり、揺れ動いたりしているかもしれない。
しかし、私どもを支え、生かしてくださっている十字架にあらわされた神の恵みというのは、はるかに大きく確かなものであるということです。


2.ですから、十字架の恵みというのは、私どもの手に入ってしまうようなものではありません。
どんなに優れた神学者や牧師でも、学べば学ぶほど知らされることは、
十字架が大きいものであるということでしょう。
自分の手に入れるというより、むしろ、大きな十字架の恵みの中に、包み込まれていく。そういうものだと思います。
私どもの知恵も力も、私どもの弱さや罪も、全てを神さまにお委ねする。
それは、まさに私どもの全てを、十字架の恵みが包み込んでいてくださることを思い起こすことです。
私どもの握りしめている知恵や力、地位や財産などがあるかもしれない。
私どもが捕らわれている不安や恐れ、悩みや悲しみがあるかもしれない。
しかし、十字架を見上げ、十字架の言葉に与るときに、そのような「私」全てを、十字架の恵みが包み込んで、救っていてくださるということを知るのです。

3.では、そもそもなぜ救いが、十字架なのでしょうか。
主イエス・キリストという方は、人々にすばらしい教えをお語りになり、多くの人々の悩みを解決してくださり、病を癒してくださり、それだけでも十分ではないかと思うかもしれません。
何故十字架なのか。
ガラテヤの信徒への手紙第3章13節は、こう語ります。
「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖いだしてくださいました。
『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです」。
「呪い」と言う言葉があります。
日常生活の中で、めったに「呪い」などということをロにすることはないでしょう。口にしたくない言葉だと思います。
しかし、ガラテヤの信徒への手紙の著者パウロは、はっきりと、
「私どもは呪われていた。呪われていたから、キリストは私どものために、呪いとなられた」と語るのです。
ここに、「わたしたちのために」という言葉があります。
これは、「わたしたちの代わりに」とも訳すことのできる言葉です。
主は、「わたしたちの代わりに呪いとなられた」というのです。
つまり、十字架につけられて死ぬということは、呪われて死ぬことであるということです。
まず私どもが、覚えておきたいことは、このキリストの十字架がなければ、
私どもが呪われた存在であったということです。
ここで私どもは、自分は、罪の故に呪われた存在であったのだということを認めなけばならないのです。
しかも、それを認めると同時に、それよるも大きく示されるのは、私どもは、もう呪われてはいないということです。
主イエス・キリストの十字架が立てられたからです。

4.「呪い」等と申しますと、変なイメージ、色々なイメージがあるかもしれませんが、
聖書の示す「呪い」というのは、神から切り離されるということです。
いのちである神から裁かれ、捨てられているということです。
このことが見えてくる時の一つが、死という時だと言えるでしょう。
死という事柄は、見て見ぬふりをしたい。
今は関係ない等と思われるかもしれませんが、本当は、いつでも私どもに問いかける大問題です。
3月11日の東日本大震災という出来事を経験しています。
この出来事においても、そのことを突き付けられていると思います。
死をどう考えるか、愛する家族、愛する仲間を失った悲しみを、どうしたらよいのか。
切実な問題です。当然そこで、誰でも、呪われて死にたいなどとは思わないでしょう。
ですから、自分の死を考えるようになると、突然、神様の祝福のようなものが欲しくなったりするものです。
自分が死を迎えたり、限界に直面するときに、そこでなお、自分は祝福されているということを知りながら死ぬことができるか。
神様から見捨てられ、耐えがたい孤独の中で死ぬよりほかないのか。
そこで、神さまを抜きにして生きる、すなわち、罪というものが露わになるのです。
罪とは何か。
それは、自分の人生を、神様から切り離し、自分のものにしてしまうことなのです。
旧約聖書イザヤ書第43章1節に、こういう御言葉があります。
「ヤコプよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。
恐れるな。わたしはあなたを贖う。
あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ」。
本当は、あなたは神のもの、神が与えてくださり、神が守り導いてくださっている人生である。
だからこそ、祝福される。その人生を、なぜ自分のものと思い込み、自分の思うように生きられると思い込むのか。
そこに罪か始まるのだというのです。
そのようにして、神との関係を切り離し、人との関係も間違ったものとしてしまう。
正しく神を重んじ、人を重んじることができなくなってしまう。
その人間の罪の悲しみにおいて、最も深く、最も低く、キリストが十字架において悲しんでおられるのです。
それゆえ十字架は、私どもの慰めとなるのです。

5.神の悲しみがある。神が苫しんでおられる。
そのようにして、神は、私どもと一つになってくださいました。
それが、主イエス・キリストの十字架の死という出来事です。
主は、最も低いところで、苦しいところで、悲しいところで、そこで一つになってくださる方です。
主イエス・キリストが、私どもの一番醜いところにおいて、私と一つに、あなたと一つになっていてくださるのです。
私どもがお互いに、本当の交わりを作り合うことができるのは、
お互いがお互いをよく知っているとか、信頼しているとかいうこと以前に、もっと大切なことがあるのです。
それは、皆、一人ひとりの一番低いところ、醜いところにおいて、その人と一つになっていてくださる主イエス・キリストがおられるということです。
なお私どもは、3月11日の東日本大震災の困難の中にあります。
以前、大木英夫先生が、日本基督教団の東日本大震災の救援のためのシンポジウムにおいて、このようなことをおっしやいました。「私たちは今、土曜日のキリストに目を向けるべきである」。
土曜日のキリストというのは、主が、金曜日に十字架におかかりになり、日曜日にお甦りになるのですが、
十字架で死なれ、墓の中で、横になって死んでおられるキリストということです。
最も低く死んでおられるキリストに目を向けるべきである。下から私どもを支えていてくださる。
私どもの死においても、その最も低いところで、主イエス・キリストが死んでおられる。
そして、そこから新しい命が動き出す。その主に目を向ける時、その十字架の主に目を向けるところで、私どもは、真実に、深く慰められ、立ちあがることができる。

6.本日のガラテヤの信徒への手紙第3章13節の言葉について、宗教改革者ルターが、こう語っています。
「私どもが犯した罪、これからも犯すかもしれない罪が、皆キリストのものになっている。
まるで、キリストがこれらの罪を犯されたかのように。
私どもの罪は、すべてキリスト御自身の罪にならないわけにはいかなかった。
そうでなければ、私どもは滅びてしまっていたであろう。永遠に」。
考えようによっては、随分虫の好い話だと思われるかもしれません。
もちろん、もう罪を犯して良いなどと言っているのではありません。
しかし、それほどに、主イエスが、私どもを深く救いとってくださっているのであります。
それほどに、主の愛が、死をも超えて、私どもを包み込んでくださっているのです。


今、私どもの力によるのではなくて、ただ主イエス・キリストの十字架、そして復活の主によって、
私どもの祝福の道が開かれているのです。
いつも私どもが、すべきことは、私どもの生活に、しっかりと十字架を建て続けることです。
そして、いつも十字架の主の前で、さらには、復活の主の前で、神の言葉に聞くのです。
「あなたの罪は赦された」と。
十字架の恵みに包まれ、主の愛が、今日もこれからも、永遠に包み込んでいてくださる、
この慰めの内を、皆で歩み行きたいと願います。


祈り:主イエス・キリストの父なる神様。
私どもに、確かに、深く、十字架を見させてください。
私どもが神を抜きに生きようとしてしまう罪を悔い改めつつ、
その罪を覆う十字架の大きさを、いよいよ深く知ることができますように。
十字架の主、復活の主の慰めが、いつも私どもの支えとなりますように。
十字架の主、復活の主の慰めの御言葉が、一日も早く、一人でも多くの方に届きますように。
主イエス・キリストの御名によって祈り願います。アーメン

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