日本基督教団 栗平教会・髙橋圭子氏説教


説教「墓から喜びが走った」
2012年4月8日イースター礼拝

今日このように、皆さんと主イエス・キリストのお甦りを祝うことがゆるされました。
もし、イエス・キリストというお方のお甦り、
ご復活がなかったとしたら、私たちは今ここで出合ってはいませんでしたね。

なぜならば、イエスさまのお甦りがなかったなら、
栗平教会はここになかったからです。
栗平教会に限らず、主イエスのご復活がなかったなら、
この世界にキリスト教会は存在しませんでした。

でも、確かにイエスさまは、十字架の上で死なれて、甦ってくださいました。

だから、・・・私たちが今このように集められています。

私たちをこの栗平教会に招いてくださるために、
神さまがいのちをかけてくださった、ということです。
それが聖書が全巻を通して言ってることです。

この世界をお造りくださった神さまが、
独り子を殺しても手に入れたいと願ってくださったもの、・・・
それは、私たちなのです。
詳しく言いますと私たちの魂、信仰です。

生きている全員が、神を信じること、
それが神さまがいちばんに願っていらっしゃることです。
それが私たちの救いだからです。

ですから、私たちの救いというのは、わたしたちの願い、
というよりも神さまの願いなのです。

ですから、逆にいいますと、それほどに・・・
つまり、神さまがこれほど本気になって下さらねばならないほど、
私たちは救いを失っています。
つまり、気がつかないでうかうかしてますけれども・・・
わたしたちは、神さまを失ったままいきているんじゃないでしょうか?
・・・それが聖書が問うことです。

といいますのも・・・
多くの人たちにとって、神さまなんか信じていない方が、
よほど自由なのではないか、という勘違いがあると思うのです。

どうしてもそう思ってしまう。

でも、神さまはあてにしないけれど、そう思っている人たちが、
意外と、星占いとか、風水とか、血液型とか、気にします。
お金とか、社会的な地位とか、流行とか、人の噂とか…、
人にどう思われているか、ということは、すごく気にする。

皆さんはそう思いませんか?

あてにならないものを信じて振り回されてしまうのではないでしょうか?

そして、極めつけは、・・・つまり今の私たちを、
ほとんど自滅的な生き方にしてしまうのは・・・
自分が自分が、という生き方ではないでしょうか?

キリスト者にとっても、縁遠いことではないです。

教会にとっても、自意識過剰という病から解放されたら
どんなに自由になれるのか、と思います。

自意識過剰というのは、目立ちたがりということだけでなく、
いつも自分がすべて、という思いです。

たとえば・・自分が悩んでいるときは、なかなかわかってもらえない、
といらだつことがあるでしょう?
何でだれもかれも物分かりが悪いんだろう!と思いませんか?

でも、人が悩んでいる問題に関しては、どうでしょうか?
皆さんは、身近な方たちの、悩みを聴いてあげますか?
その悩みが、どうでもいい時には、私には関係ない、と思われるでしょう。

または、どうでもよくない状況にある相手に対しては、なんとか助けてあげたい。
でも、私には何もしてあげられない・・・ごめんね、としか言いようのないことがいくらでもあると思うのです。

そして、神さまというお方は、こういう小さな人間の問題を
けっしてばかになさらないのです…
憐れな人間どもよ、というような
上から目線で眺めておられるだけの方ではないのです。

わたしたちが、今日、この聖書で出合うお方は、
イエス・キリストというお方は、私たちのどんな小さな問題でもばかになさらない。
どんな深刻な問題でも、逃げたりなさいません。

いついかなる時も、むしろどうにかして機会を捕まえて
私たちに、関わって下さろうとします。
本気で私たちを、私たちの問題を負って下さろうとなさる。
そして、わたしを信じなさいと言ってくださる方なのです。

そのために、十字架の上で死に、葬られてくださり・・・
しかし、そこから甦らされてくださいました。

神の救いの御計画を実現してくださったのです。

主がどのようにご復活なさったかについて、
ヨハネはとりわけ詳しく注意深く語っています。

どの福音書もそうなのですが、聖書の語り口は、
私たちから決して遠いところではないです。

聖書が語るのは、私たちの代表のようなこの女の人たち、男の弟子たちが、
まず、どれほど、主のご復活を信じられなかったかなのです。

まず女の人マグダラのマリアが登場します。
他の福音書では複数の女たちと墓に行った、とありますが、
ヨハネによる福音書ではマグダラのマリアに注目しています。

多分この人は、主イエスへの思いを断ち切れないでいた人の一人と思います。

ですから、この墓に葬られた後、ここには毎日通っていたのではないかとおもいます。
そして、三日目に当たるこの朝も、
・・・もう夜が明けるのを待ちわびて墓にかけつけたのです。

みなさんも、遺体のそばに寄り添っていたいと思いは、理解できるとおもいます。
日本では、火葬に致しますけれど、
なかなか埋葬する決心がつかないという場合は少なくないです。

マグダラのマリアも、まだ3日目です。
主イエスの死なれたことも、何で死ななければいけなかったのですか?
と多分納得していなかったと思います。

本当に慕っていたのです。

そのマリアが、墓に行って、大変驚いたのは、
墓穴をふさいであった石が、動かされていたのを見たことでした。

これは大事件だと思った。
この当時、墓泥棒はめずらしいことではありませんでした。
主イエスを恨んでいた人たちが、もっていってしまったのに違いないと、
マリアは思い込みました。

なんとかしなくては、と思いました。
いや、なんとかしてもらおうと思いました。
だから、マリアはあわてて墓から走り出しペトロのところに行き、
ペトロだけではなく、また、もう一人の弟子のところに行ったのでした。
マリアは、まだ墓穴をよくみてはいません。
入ってたとも書いていない。

でも、マリアは「誰かが墓から主を取り去った」と確信している。
そうして、明らかに、怒りつつペトロに報告しています。

さあ、一方のペトロたちはどうだったのか?

私たちは弟子たちと女の人たちとの違いを見ます。

弟子たちは、全く、暗く過ごしていました。
ひたすら閉じこもっていたのに違いないんです。
墓参りする気力はなかったんです。

この後の、19節以降のところ、これは来週ご一緒に読むところですが、
弟子たちは怖がっています。金縛りになっていたのです。

ずっと敬愛して、従ってきたイエスさまが殺されてしまわれた。
逮捕にかかわった裏切り者のユダは自分たちの仲間でありました。
それだけでなく、自分達も主を裏切って逃げてしまった。

私はあなたと一緒なら神でもかまいません、
と勇ましく宣言したペトロも、イエスさまの裁判のとき、
遠巻きについて行くのがやっとでした。
そして、あんたも、あの仲間か?と神殿にいた人たちに言われたら、
とんでもない、ぜんぜん、あんな人など知りませんよ!と、打ち消しました。

ここ1週間ほど、ペトロたちには悪夢でした。
いやなことばかり、思い出されたのです。
でも このマグダラノマリアからの衝撃の知らせが入りました。
・・
これを聴いたら、行動しないわけにはいかなくなりました。

大変だと慌てて墓に走った。 


ペトロともう一人の弟子、
おそらく、この福音書の語り手のヨハネだと言われていますけれど、
ヨハネが若かったとも言われています。
それなので、早く着いてしまった。
この弟子は中を覗いて亜麻布があるのを見つけました。


この時の見る、という言葉は、肉眼の目で見たということを意味します。

亜麻布が置いてあった…
ここで3回「布が置いてあった」と新共同訳で語られるところを
すべてカトリックのフランシスコ会訳では「置いてあった」といわずに
「平らになっていた」という。

この当時、葬りの時には、遺体に香油を縫って、
それから布でぐるっとまく習慣があったからです。

その状態を見る限り、イエスさまは、布からすっと、
抜け出たかのようであった、というわけです。
それで、中味がなくなって布が、ぺちゃんと、平らになった…ということです。

このことは、ご復活の主イエスが、すぐあとのところで、
弟子たちの家を訪ねてくださったとき、鍵をかけてあったその戸を、
通ってこられた、ということと、ひびきあいます。
つまりご復活の主は、人間が考えるようなおからだではなく、
まったくあたらしいおからだをもっておられたということ。
フランシスコ会訳の聖書は、ここのギリシャ語をそう読んでいます。
なるほどなと思います。


状況証拠として、空の墓と、ペタンとなった布を見て、
ああ、主イエスがお甦りになられたのだな。ということわかった。
しかも、不思議なお体になって、ご復活なさったのだ、
ということを、この語り手のヨハネは、見て、信じた、というのです。
8節がそうです。

けれども、すぐそのあと9節で、語り手がなんていっているか?

実は、でも聖書の言葉を理解していたわけではなかった。
この主イエスのご復活の意味を本当には理解していなかった、と言葉を重ねて言う。
これはみなさん、おやっとおもわれないでしょうか?

つまり、ヨハネ本人が、自分は見て信じた、と思った。
でも、それは本物の信仰ではなかったのだ、
…後からそれがわかった、とくいあらためながらいっているのです。

なぜ、理解していなかったのか?
といえば、この二人は家に帰ってしまっています。

つまり、変わってないのです。
元の、自分の家に、自分の生活に帰った。
主のご復活をきいても、そして見て、そうだったのか・・・とおもった。
どうやって復活なさったか、ということを、知った。信じた。
でも、生活は変わりませんでした。
家に帰ってしまった。同じように閉じこもりました。

それで、本当に信じたといえるか?

ということが問われているんです。

これは、サマリアの女の人の状況と比べて見ると一目瞭然だと思う。
サマリアで主イエスが出合ってくださった女の人は、
救い主に出合った、とわかった途端に生活がガラッと変わりました。
前と同じように生きることはできなくなっていた。
町の人とは、口もききたくなかったのに、堂々と、人々の中に出ていって、
私の罪を言い当ててくださった方が、来てくださったんです。
私は救われました・・重荷を取り払われました・・
皆さんも、あの方にお会いしてみてください…と宣伝して回ったと聖書は言っています。

でも、この二人には、まだそのことが起こっていない。

だから、このあと、主がこの人たちのところに来て、
聖書をわからせてくださる必要があった…


そして、一方のマリアはどうか。
マリアの涙は、一向に止まりません。

この人はまだ絶望から立ち直れていませんでした。
涙にぬれたまなざしで墓の中をじっと観察していました。

そこには天使たちがみえました。

なぜ、泣いているのか?とマリアは問われました。
なぜ泣いているのか、とは、なく必要はないでしょう?ということです。


ところがマリアは、最初の自分の見解を変えようとしません。
誰かが主を連れ去って行った、と言いつづけます。
ここでは、私の主を、誰かが奪って行った。
私の主、と主張を繰り返して言っている。

しかし、そういいながら、後ろを振り返ることができました。
そこで、マリアは初めて、墓の方ではなく、墓の反対方向に顔を向けたました。

そこに主イエスがたっておられた!
これは、ヨハネが注意深く語っていることです。

その人影に、マリアはじっと目をこらしてみましたが、だれだかわかりませんでした。
イエスさまが見えませんでした。

主イエスは、しかし、マリアに話しかけてくださった。
なぜ、泣いているのか。
誰を探しているのかと聴いてくださった。

マリアは、それでも持論を変えないです。
イエス様に向かって、「わたしがあの方を引き取ります」
…ここでマリアが言うのは、あの方を引き取るのは、他でもない、私なんです!
絶望と怒りがこみ上げてくる。

しかし、そのマリアに対して、主イエスは、マリア、と名前を呼び掛けてくださった。

マリアに気づかせるためでした。
マリアはやっとこの方が主イエスだとわかった。
そして、ラボニ といった。
これは、私のラビ、私の先生、という意味です。

そして、多分、マリアは、私の先生、と主にすがりつこうとしたのに違いない。
だから、「すがりついてはいけない。私にさわってはいけない」とおっしゃいました。


わたしたちは・・・これを、イエスさまは、冷ややかなんじゃないか?
って誤解してはいけないと思います。



私たちにとって、問題なのは、自意識過剰といいましたが、それとつながっているのが、こういう本音を温存したいという誘惑ではないかと思います。

どうでしょう?


ここを読みまして、主を慕っていたマリアが、本当に悲しんでいる。
美しいではないか。
思いっきり悲しんで何が悪いのか?いいではないか。
悲しい時には泣きたいだけ泣かせてほしい。
それをとやかく言われる筋合いはないだろう…
なぜ、泣いていてはいけないのか?という主張をし続ける。
マリアは、誰かが主のご遺体を引き取るなんて許せない。
私から主を奪った。
私の主なのに、わたしがあの方のご遺体を引き取るのに。

こういう主張に、私たちは同情したくなる?


しかし、実に、こういう、人間中心の思い。
自分へのこだわりから、私たちが解放されるために、主イエスは戦ってくださいました。


マリアに対して、主は私にすがりつくのはよしなさい。触ってはいけない。
とおっしゃったのは、
いろいろな「思い」を断ち切らせてくださるためでした。
そしてこの人を、救ってくださるためです。
つまり、この人に本物の信仰を起こさせてくださるためでした。

私たちは、聖書に問われます。
自分の中の親しい思い、イエスさま大好きだという思い、
・・・それをどんどん突き詰めていくのが信仰だというのか?

でもそれはちがうでしょう?
それを信仰と勘違いしてはいけない。
そういう思いは、自分に情熱がなくなってしまえば、それでおしまいになる。

自分が主イエスを信じている、と思ってそこにこだわっているならば
私たちは・・・いとも簡単に、神様なんて、関係ない、
というものになってしまうんです。

主イエスがここで、丁寧に語ってくださっているのは、
主イエスによって、神を父と信じる信仰です。

マリアを拒絶なさった。
主イエスは、マリアに触れてはいけないとおっしゃることによって、
本当に、深くこの人と結びついてくださろうとなさいました。

ある説教者は、マリアは、拒絶されて喜んだに違いないとまで語っています。

そうだ、とおもいます。

私たちにとって、教会にとって、
自分の中にこのお方に対する、知識や、親しい思いを、
積み重ねていくのが、信仰なのではない。

主イエスという方を、
救い主と信じる信仰を与えられていくこと…それが信仰です。

そういうふうに主が願っていてくださる。
私たちが一人残らず、主イエスに出合って、この方によって、天の父を、父よと礼拝することができるように…
今は、全能の父の右に座しておられる主イエスを信じることができるように、主イエスは十字架の上で死んでくださった。

そうやって、一途な愛を、神が御子イエスさまによって注いでくださいました。

墓から喜びが走り出した…
弟子たちが、走り出す前に、
イエスさまが、本当に神さまはいらっしゃる! って見せてくださいました。 
その喜びを携えてよみがえらされてくださったのです。


▶「日本基督教団 栗平教会・高橋圭子氏」ページに戻る